いつも、もやもやしていたい

南4階病棟 高橋

以前のある経験から、患者様の生死の際の意思決定について、もやもやした気持ちを引きずっていた時出会った患者様の話です
40代の彼女と初めて出会ったのは8ヶ月前でした。スキルス胃がんですでに腹膜藩種とシュニッツラー転移の状態で手術適応はなく、抗がん剤治療のために入院されました。私は、同年代で同じ子を持つ一人の女性として彼女に親しみを感じておりました。すでに彼女は外来で癌告知を受けており、入院期間中は大部屋という事も影響してか、辛いとも言わず、胸の内を語る事も暗い表情も私たちに見せる事もなく、常に治療に前向きでした。そして、子供の話になると「上のお兄ちゃんは高校生でね、真ん中は中学生で受験生、一番下は小学6年で一番の甘えん坊さん。おばあちゃんがいてくれるけど、早く帰ってやらんといかんのよ。」と予定の治療が終わるのを待ち望んでおられました。それから、4月・5月の治療入院、その後は外来での治療が開始され、再び彼女に逢ったのは10月、抗がん剤の副作用による食欲低下で入院されてきました。明らかな体重減少と癌による疼痛で彼女の顔からは笑顔が消えていました。私は医療の限界にある状態だと思っていましたが、新しい薬での抗がん剤治療が再び始まりました。しかし、これまでの入院中とは違い、この時は嘔気・嘔吐・倦怠感に苦しまれ、声をかけるのも辛くなる様子でした。それでも彼女は頑張り、少しの軽快時に退院されました。退院される時に「子供さん達が喜びますね」と声をかけた時に彼女がいつもの笑顔で「そうやろうかな?」と照れながらも嬉しそうに退院されたのを覚えております。私は彼女の生きる意味や頑張れる意味は家族なだと思い、少しでも一緒の時間を過ごせられますように・・・と願いました。しかし、1ヶ月も経たずに極度の貧血状態、食物通過障害で再入院されました。主治医からは「貧血が治れば新しい抗がん剤の導入を考えている。導入できたとしても、最後の治療になる可能性が高い。今後は緩和治療に向かっていく事になる」。といった内容のインフォームド・コンセントが本人・ご主人へされていました。

私は彼女の事が気になり部屋へ伺いました。彼女はやせ細り、顔色も悪く、支えなしでは座っていられない状態でしたが、私の顔を見て「また、来てしもた。でももう帰れんと思う」と悲しい言葉とは逆にうっすらと笑っていました。私はそのつくり笑顔がとても辛く、涙が溢れそうになりました。そんな私の顔を見てか、彼女が「先生に後どれくらいか?と聞いても教えてくれんの。私はもう抗がん剤治療はしたくないのに・・・辛い苦しい思いはもうしたくない。少しでも子供たちと一緒にいたいのに・・・。」と涙を流し訴えてくれました。子供を持つ母親の気持ち、自分の寿命を悟った気持ちに私も抑えていた涙が溢れ一緒に泣いてしまいました。そして「もう一人の先生も同じ事を言うやろうか?私に抗がん剤使うって言うやろうか?」と思いをぶつけてくれました。私は「この思いを先生に伝えなければいけない」と思いナースステーションに戻りました。そして、ちょうど居合わせたもう一人の主治医へ話しをしました。先生は直ぐに彼女の部屋へ行き、ゆっくりと話始めてくれました。発症から今までの治療経過、今身体でどんな事が起こっているのか、そしてこれからの事。これから新しい抗がん剤を使うことは出来るが、体力的に無理かもしれない。副作用も激しく出る可能性もあること、治療を望まなければ緩和ケアという選択もある。また自宅で過ごして辛くなったらいつでも病院へ戻っていいこと、残された時間は少ないこと、心療心理士に話を聞いてもらう事もできる等、丁寧にいくつもの選択肢を彼女へ話してくれました。隣で聞いていて、「本当の意味のインフォームド・コンセントはこれなんだと先生さすがだな~」と感心しました。翌日、彼女はご主人と自宅へ帰られました。私は自宅に帰っている彼女のことを思うと、本当にこれで良かったのかな・・・?家族は大変だろうな・・・・と気になりながらまた、もやもやした気持ちで過ごしていました。

数週間後、とうとうお別れの時がきました。夜勤明けの朝、緩和病棟のスタッフがわざわざ知らせにやって来てくれました。彼女が緩和ケア病棟で過ごしたのは1日に満たず、ギリギリまで自宅で過ごせた事、亡くなる数時間前まで会話も出来、穏やかにご主人に抱かれ亡くなられたと知らせてくれました。そして、「ご主人さんがあなたの名前を言っていてね。あなたと話せて良かったって言っていたよ」と伝えてくれました。知らせを受けて、師長へ報告した時に「繋がったね。」と言ってくれ、「これが寄り添う看護なんだ」と思うと同時に私のもやもやした気持ちは吹っ切れました。後日、初七日が終わった頃に、ご主人がわざわざ病棟まで来てくださり私を探してくれて、退院してからの自宅での様子をお話してくださいました。そして「僕は後悔していません。妻が好きだった家で、子供と一緒に寝て過ごして、声を聞いて過ごせたことは本当に良かったと思っています。ありがとうございました。」と言って頂きました。私はこれからも、もやもやした気持ちを持った看護をしていこうと心に決めました。